静寂が続く。途切れた会話。
言葉も交わさず、ただ互いを見つめ合うだけだった。
血で染まった唇が微かに動き、溜息が漏れた。
「もういいよ。」
溜息と共に紡がれた言葉で、静寂は破られた。
「吸血鬼になんて教えたくないんだろう?」
「違っ。」
違う。私の名前、あなたに伝えたい、知ってもらいたい。
でも、伝えられない、知ってもらえない。思い出せない...。
少女は彼から目を逸らし、うつむいた。泣いてしまいそうだった。
伝えられないもどかしさと、思い出せない悔しさで胸が苦しい。
これ以上彼の顔を見ることはできなかった。
目の前は涙で滲み、視界が霞む。頬を流れる涙は止まることなく溢れ出す。
その様子に気づいたのか、彼は少女の顔に手を当て、優しく涙を拭った。
少女が顔を上げると、彼はゆっくり歩き始めた。
静かな部屋に足音が響く。窓の前に立ち止まり、静かにその窓を開けた。
「もうすぐ夜が明ける...。」
空から降り注ぐ光が月光から朝日に移り変わろうとしていた。
初めて見る横顔。悲しげな表情はやはり全く変わらない。
それどころか、赤い瞳がますます愁いを帯びているようにさえ思える。
月の光を受けて夜風で揺れる髪が輝き、美しさをいっそうひきたてる。
思わず見とれてしまうほど...。
「僕のことは忘れて。」
そう言うと、彼は少女に背を向け、窓から身を乗り出そうとした。
「待って。」
行かないで。忘れたくない。忘れることなんてできない。
少女は彼の背中にしがみついた。
「あなたの...あなたの名前を。」
とっさに出た言葉。とにかく引きとめようと必死で、
言葉を選んでいる余裕なんてなかった。
少しでも長く傍にいたかった。離れたくなかった。
でも、彼からは何の反応もない。振り向いてもくれない。
怒ってしまったのだろうか?少女は腕の力を緩めた。

えっ...?

高鳴る鼓動。心が支配される。冷め切った体が少女に触れた。
二人の距離を隔てるものは何もない。
少女は抱きしめられていることに気が付いた。
「クロード。」
かき消されそうな声で少女に囁いた。切なくなるほど悲しげな声。
「クロード?」
少女が顔を上げ、互いの視線が交わった。
それと同時に一瞬、困惑したような顔を見せ、少女の前から姿を消した。
「え...?ちょ...ちょっと待って。」
慌てて窓を覗いた。どこにも彼の姿はない。
変わりに太陽が姿を現し、夜の終わりを告げようとしている時だった。

「ここで何やってるんだい。」

突然聞こえた罵声。誰...?
声がする方へ振り向くと、少し年老いた女性が立っていた。
「ああ。あんたかい。やっと目覚めたようだねぇ。」
そう言って、女性は少女の傍に近づいた。
「あのぉ。あなたは...?」
「あたしかい?あたしはここの支配人のアンナ。」
「支配人?」
「そんなことより、あんたは無事みたいだね。」
アンナは床に目を落とした。彼が殺した女性が倒れている
青ざめて血色を失くした顔。決して目を開けることはない。
すっかり忘れていた。少女は周りが見えなくなるほど、
いつの間にか彼に心を奪われていたのかもしれない。
「この子の首を見てご覧。この傷は吸血鬼の仕業さ。」
アンナは指差した。ついさっきまでそこにいた彼が残した傷痕を。
「ここ数年、この辺りで吸血鬼の被害が増えてきていてねぇ。
 しかも被害者のほとんどが娼婦。これじゃあ商売になりゃしない。
 本当に困ったものだよ...。」
娼婦?商売?何を言っているんだろう? いったいここは...。
「こ...ここはどこなんですか?」
「ああ。ここは、そうだねぇ...。娼館と言えば分かるかい?」
「娼...館?」
「驚くのも無理はない。あんたはここへ売られて来たんだよ。」
売られた?
「私は...私はこれからどうなるんですか?」
「もちろんここで働いてもらうけど...。」
「働く?何をすればいいんですか?」
「ちょっと。ここは娼館だよ。体を売ればいいに決まっているだろう?」
アンナは吐き捨てるように少女に言った。
「世間知らずな子だねぇ。いったいどんな環境で育ったんだい?」
聞きたいのはこっちの方。売られるなんてきっと普通じゃない。
私はいったい何をしたんだろう?どんな人生を歩んで来たのだろう?
床に横たわっている女性に目を落とし、あの時聞いた言葉を思い出した。

「私の体を求めているんでしょう?ここに来る男はみんなそうだもの。」

「この人もここで働いていたんですか?」
「そうだよ。娼館にいる女はみんな娼婦。当たり前のことだろう?」
説明するのが面倒だと言わんばかりの態度を見せた後、
不思議そうな目で少女を見つめた。
「あんた...大丈夫かい?顔色も少し悪いみたいだし...。
 今日はまだ客の前に出せないねぇ...。早く自分の部屋に戻りな。」
「自分の部屋?」
「あんたが寝ていた部屋だよ。今日はそこでゆっくり休んだ方がいい。」
「でも、この人は...。」
「心配しなくていいよ。この子のことはあたしが片付けるから。」
アンナは少女の腕を掴み、部屋の外に追い出した。
「あんたも吸血鬼には気をつけるんだよ。」
そういい残して、アンナは扉を閉めた。



夜が明け、太陽は高く昇り、そして沈む。
空には満月が浮かび、再び夜が訪れた。
今はもう使われていない部屋。昨日彼に出会った場所。
「こんなところにいたのかい?ずいぶんと探したよ。」
「私を?」
「あんたを買いたいって言う客が来てるんだよ。」
「で...でもまだ客の前には出せないって...。」
「そう言ったけど、これを渡してくれって言うから。」
少女に差し出されたのは一本の薔薇。
白い花びらが少しピンクに染まっていた。
優しい香りを放ち、可憐に咲いている。
「もしかして知り合いなんじゃないかと思ってねぇ。」
私を知っている人?
「その人はどこにいるんですか?」
「あ...ああ。あんたの部屋で待ってもらっているけど...。」
私を知っている人。でも...。
例えその人が私を知っていても、私は覚えていないかもしれない。
自分のことさえ思い出せない私が、いったいその人の何が分かるだろう?
きっと分からないに決まっている。
それでも、少女はどこかで期待していたのかもしれない。
もしかしたら...。
「ちょっと。どこに行くんだい?」
少女に声は届かなかった。
ささやかな期待を捨て切ることはできず、自分の部屋へ急いだ。
ずっと不安だった。何も分からなくて、何も思い出せなくて。
でも、やっと私を知っている人に会える。私の名前も分かるかもしれない。
長い廊下を走り抜け、たくさんの人にすれ違いながらやっと辿り着いた少女の部屋。
少女の息はまだ荒い。

少女は薔薇を握り締め、扉を開けた。







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